当院、法水山 来法寺は、

元和3年(1617)10月大圓により開基され

寛文年中(1660年頃)貞照院にしたがい

東派に帰した真宗大谷派の寺院で

真宗本廟(東本願寺)の末寺です

来法寺について

来法寺外観

当院、法水山 来法寺は、元和3年(1617)10月大圓により開基され

寛文年中(1660年頃)貞照院にしたがい

東派に帰した真宗大谷派の寺院で、真宗本廟(東本願寺)の末寺です

年間行事

ヨガ
1月1日 修正会
3月 永代経会
8月15日 盂蘭盆会(納骨法要)
11月 報恩講
12月31日 除夜会
毎月28日 例会(正信偈唱和・寺ヨガ)

納骨堂について

納骨堂内観

来法寺は、親鸞聖人の顕かにされた

浄土真宗の教えを四百年にわたり伝えてきました。

当院では、亡き人を偲びつつ、

今を生きる私たちの「いのち」のあり方を見つめなおす

機縁となる納骨堂を設置しております。

有縁の皆様方にとって当院への納骨が、

さらなる聞法生活の歩みとなっていくことを願っています。

くわしくみる
納骨堂廊下
来法寺本堂

来法寺の歴史

来歴

当寺は、元和3年(1617年)10月に

赤松円心の血縁のひとりである"赤松大圓"により開基された。

本堂は2回に渡り建て継がれ、古い方は天台宗様式という。

寛文年中(1660年頃)貞照院に随ひて東派に帰し

貞照院に従い東派に帰した真宗大谷派の寺院で

真宗本廟(東本願寺)の末寺である。(元和3年は新暦、旧暦では元和2年)

「飾磨郡誌」には「本尊阿弥陀如来 当寺は

元和3年10月大圓の開基する所にして

寛文中、貞照院に随ひて東派に瞞せし寺の一也、

以前より京都本願寺の末寺たりき」と記載されている。


文献では、守護大名の赤松満祐が上郡の白旗城で戦いに敗れ、

一族郎党が落城と共に、この播磨の地に散り、下手野に落ち着いた人は

赤松の血縁につながる20人の高級武士が居を構えて村おこしを始めた。

そして、血縁につながるひとりが僧侶(赤松大圓)となり来法寺を開基し、

もうひとりは大庄屋になって、その他の武士とともに村の発展に尽くした。

来歴写真

力井戸

寺の境内に小さな古井戸があり、昔からよく力試しをしていた。

なぜ『力井戸』と呼ぶかといえば、何代か前に

この寺に女のカの持ちがいると聞きつけ、力試しに挑戦したい人がいた。

最初に力士が米俵四斗を片足に履いて、その井戸を片足で渡った。

しかし女力持ちはその米俵を足に履いて井戸をまたぎ、

その足でまた元へ戻したので、挑戦者の力士は「ほうほう」のていで

逃げ帰ったとの伝説があり、以来「カ井戸」と呼ばれるようになった。

そして昭和の初め、門徒の人たちがカ井戸の名を残すため

大きな井戸ばちを作った。

力井戸

ふれ太鼓

たたかれ過ぎて、あった皮が破れたまま天井に吊ってあった。

修復するために降ろしたところ、

太鼓の胴内に、天明2年〜天明8年に発生した。

天明の飢饉(1782〜1788)の時に使用したことが

刻銘に記されており、外からは見えない。

現在は、「法水会館」(大和流空手道場)に保管されている。

ふれ太鼓
下手野来法寺文書写真1 下手野来法寺文書写真2

下手野来法寺文書・海防協力方指令書状壱通

海岸防禦之為此度諸国寺院梵鐘本寺ノ外古来ノ

名鐘及当節時之鐘ニ相用候分ハ

相除キ其余可レ鋳ニ換大砲小銃一之旨京都へ

被二仰付一候海防之義専世話有レ之候折柄云云、とある。

(『夢前川流域史』〈黒船来航と郷土〉を引用)

梵鐘は太平洋戦争による金属回収・物資の不足により昭和18年供出。

現在の梵鐘は、昭和23年4月有志により寄附されたもの

下手野来法寺文書写真1 下手野来法寺文書写真2

下手野来法寺文書・海防協力方指令書状壱通

海岸防禦之為此度諸国寺院梵鐘本寺ノ外古来ノ

名鐘及当節時之鐘ニ相用候分ハ

相除キ其余可レ鋳ニ換大砲小銃一之旨京都へ

被二仰付一候海防之義専世話有レ之候折柄云云、とある。

(『夢前川流域史』〈黒船来航と郷土〉を引用)

梵鐘は太平洋戦争による金属回収・物資の不足により昭和18年供出。

現在の梵鐘は、昭和23年4月有志により寄附されたもの

交通アクセス

来法寺

兵庫県姫路市下手野3丁目12-10


電車 / JR姫新線

姫路駅より播磨高岡駅(約3分)

駅より徒歩約10分


バス / 神姫バス

姫路駅より下手野(約16分)

停留所より徒歩約4分

交通経路図
境内マップ

当院には駐車場がございます。

お車でのご来院も可能ですので、駐車場をご利用の方はご連絡ください。

お気軽にお問い合わせください

079-293-6042

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